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「yotsuya-kaidan」が終わりました。
もう3,4週間も前のことになるけど…見に来てくれたみなさんありがとうございました。 本当はこういうことは終わった直後に書かんとね…。でもなんかなかなか書く気になれなかったもので…でもそれじゃあブログの意味無いじゃん…。。。 なんか終わった直後も終わったという気がしなかったのです。 それは、美術運搬の関係で、千秋楽のその日に打ち上げが出来なかったっていうのもあるのかもしれない。 つい先日「yotsuya-kaidan」の打ち上げはあったのです。 それを越えて、ようやく終わったな、という感じはしました。 「東街道四谷怪談」原作者である鶴屋南北は、スター性や形に頼っていた歌舞伎というものに疑問を抱き、この作品で得意の人間ドラマを書いたわけですが、日常と非日常が交錯するこの作品において、もっとも強く感じたのは、「演劇は見世物である」という言葉でした。 鶴屋南北が大切にしたかったであろう人間ドラマを木ノ下くんの補綴は、すごく繊細に再現していたと思うし、ある種歌舞伎のような、形を意識する杉原さんの構造的な演出は、単純に格好いいものだった。 そういった繊細なドラマと形の格好よさは、どちらも鶴屋南北が凄く意識したであろう歌舞伎の姿であったと思う。 そして今回ドラマと構造はおもしろい化学変化を起こしていた。 歌舞伎でも可能なのだろうか。繊細なドラマの追求と、形の格好よさという二つのベクトルが存在することは。 最初、本を読んだ段階では、お岩の顔が変化し、髪が抜け落ちる「髪鍬の場」を、様々な人間模様が巻き起こした「結果」として捉えてた。それが構造の演出に乗った瞬間自分の中で「見せ場」として消化された。あの時、化学変化が起こったと感じた。 構造は演劇というものに対してもの凄く原始的で、緻密で繊細な演技を、さらに見世物として消化させてくれた。 果たして自分自身の演技が、それを体現できていたかどうかは、それはあまり自信がない。 十分に自分の考えを舞台で表現できるようになるまで、まだまだ技術の鍛錬が必要だ。 役者としてまだまだ未熟ではあるけれども、今回役者として感じたたしかな感覚があって、それは私自身の勝手な体感なのだけど、「髪鍬の場」において、お岩と宅悦の間で、役者と役者と舞台空間での感覚の交換は、やっぱりたしかにあった。 その作り出された舞台においての力で、十分に客席にパンチを繰り出せたと思う。 うん。あの感覚は大切にしたい。 あれはこれから役者をやるにおいて、そしてchikinをやるにおいて、必要な感覚だろうと思う。 「yotsuya-kaidan」のお岩役をやれて良かった。 本当にいろんな大切なものを得ることが出来た。 山村麻由美
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